異端者の悲しみ

耽溺日記

祈り足りない夜について②

 

 ランチには遅く、ディナーには早い時間のインド料理店には三人のシェフが居た。地下のゆったりとした店内の奥にはリゾートを思わせる観葉植物で彩られたあずまやがあった。クリスマス・イブに何もかも似つかわしくない景色。男ふたり、夜をさまようための指針を決める。わたしは一般的なセットを頼み、男はカレーとナンとチキンとビールをそれぞれアラカルトで注文した。久しぶりに会うのに出てくるのは互いの「ビジネス」の愚痴から「極上の女たち」との「甘い夜」についてまで様々。


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 「稼業」についてからというもの、無職だった頃には考えられないほど忙しく日々が過ぎ去った。北とは思えないほど暑い夏が来て、街にいくつかの行きつけの店が出来て、何軒かの名店が閉店し、何人かの人と街の中でプライベートで飯を食べに行く関係になり、そして雪が降り始めた。

 「ある出来事」がわたしの何かを壊し、雪の降る昼に稼業の街を離れた。街を離れてひとつき南へ西へ北へ東へ流れ続けた。語らい、歌、たばこ臭いホテルの部屋。部屋に風呂が無く、時間を指定して女将さんに風呂を沸かしてもらった熊本の宿も良かった。流れれば流れるほどに素敵な出会いがあり、わたしはこの一ヶ月間、過ぎ去る街に心を残しながら、流れ全体に耽溺していた。


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 「恋の街」での「稼業」の仲間たちとの忘年会は流れてしまった。そうしてわたしは恋の街から遠く離れた土佐の地で、神学校時代の仲間であり稼業の仲間でもあるこの男と落ち合った。わたしたちは互いに愛だの文学だのこの国の行く末だのについて語り合い続けた中だ。そうしてわたしたちは互いに歳を重ねて、気付けば約七年のつきあいとなっていた。わたしがたばこを覚えたのも、後輩として神学校に入ってきた彼のせいだ。就職でも世話になった。もうひとりの「ゲバラ」「パウロ」「スティービー・ワンダー」など数多くの極上のあだ名を持つ、「福音を背中で教えてくれた男」と3人で過ごした、阪神間の丘の上での日々を思い起こしていた。

 昔語りが長くなりすぎた。この夜の出来事に話を戻そう。高知の街いちの繁華街は「ヤリモクでかんざしを買ったthugい坊主」の逸話が有名なはりまや橋の周辺だ。帯屋町の商店街を抜けると、「ひろめ市場」という有名な市場があるが、わたしたちはそこに用はなかった。もっと街の深いところへ、深いところへ、この夜を彩る物語を探しに行くことにした。

つづく、、、、、、

祈り足りない夜について

 正午すぎの成田空港、「北」から流れたわたしは東京ではいささか暑すぎる分厚いダウンを腕に抱えて、仕事道具と少しの着替えを詰め込んだ肩掛け鞄を肩に掛けて高知行きのフライトを待っていた。滑走路へ向かう中国南方航空の中型機、年末の休みに郷里へ向かうかと思われる家族連れ、クリスマス・イブの空港は流れ者のわたしをどこか感傷的な気分にさせた。


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 高知へ来るのはほぼ1年ぶり、何の仕事をして暮らしているのかわからない男に会うために。「愛人がみんな遊んでくれんくて、さみしいんや。。。」わたしもまた彼の愛人のような立場だし、「恋の街」での忘年会は流れてしまったし「副業」の方は病気で休んでいるし、暖かい街に行って旧交を温めるのも悪くない。22日まで「北の旅人」として流れていたが、夜の札幌で「北空港」発の航空券を予約した。

 東京での14時間の乗り継ぎ、新宿である若い男、この男もまたこの国の行く末を憂いている、と落ち合い夜を流れて気付けば中国のお菓子をたくさん手にしていた。旅の間のおやつには困らないぐらいに。この奇妙な流れについてはまた別の機会にでも。

 東京からのわずか1時間あまりのフライト?の、ちあきなおみの「夜間飛行」を聞いた。会社携帯を機内モードに入れて「流れ」ることから始まったこの暮らしが始まって、一か月が経とうとしていた、、、

 高知空港に降り立つと、シャンパンゴールドのセダンがわたしの元に近づいてきた。南国のうららかな冬の日差しにほっとしながら、後部座席に荷物を放り込み、たばこ臭い車内に乗り込んだ。

 60年代~70年代の昭和歌謡とUS90sのギャングスタ・ラップがごちゃ混ぜになったプレイリストを流しながら、市内中心部に向けて加速する。「ごめん」と行き先表示に書かれた路面電車とすれ違いながら、追い越し車線を走る。名曲「別れても好きな人」を歌ったムード歌謡グループと似た名のホテルを横目にするともうすぐ播磨屋橋。この街いちの繁華街だ。

 前回(ブログ記事参照)来たときはこの街の夜を流れて歌いに歌って過ごした。飲めや歌えの小さな騒ぎ。わたしたちは大騒ぎするには年老いてしまったから、むかしを懐かしみ、むかしの歌を歌い、けれども目だけはむかしと変わらずにギラつかせていた…

 繁華街を通り過ぎてセダンをパチンコ屋の屋上駐車場に停めた。古い旅館街をひとときさまよい歩き、播磨屋橋で地下のインドカレー屋へしけ込んだ…

 午後4時半、昼食にしては遅く、夕食には早い時間。わたしたちはこれからの夜の“流れ方”について語り始めた…

 クリスマス・ソングが似合わないイブの夜をどうすれば彩れるか、どうすれば“福音”を聞けるかについてを…………

(つづく)

 

酔って候

 梅田の駅の周りは本当に喫煙所が少ない。阪急電車の駅内のそれもコロナ禍で封鎖されてしまってから随分と経つ。癪なことだ。パチンコ店の喫煙所に入って一服した。土曜の昼前、高知に向かう高速バスを待っていた。しばらくすると「色男」(金沢の旅について記した長編ブログ参照)が現れた。バス待合の売店には、ろくなものが売ってなかったが、色男はおにぎりとお茶を買っていた。

 バスが来た。高知までは5時間程だろうか。バスに乗り慣れた、わたしにとっても少し億劫になる距離だ。乗り込むと意外と乗客は少なかったが、途中の新大阪や宝塚で新たに何人かを拾って走り続けた。どんよりと曇った空からは、時折、雨粒が落ちた。

 バスは淡路島の南の方にあるパーキング・エリアに小休止を取った。少し遠くに見える本線との合流に「四国」との文字が書かれていることに、また旅が始まってしまったかと呆れた様な感情を抱いた。バスが徳島に入る頃には晴れ間が見えてきた。まだ、先は長い。四国といえば山ばかりだから、余計に長く感じることだろう。晴れと曇り、そして雨の中を行ったり来たりしながらバスは進んだ。二度目の小休止の後はひたすら山の中のトンネルを出たり入ったりを繰り返した。


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 「南国」や「高知」を示す路上の看板が二ケタキロになった頃、晴れ間が広がった。この分では、この旅は安心だ。高知のインターチェンジを降りて、間もなく高知駅に着いた。待ち構えていたのは、この街で「稼業」をする男。シャンパン・ゴールドのセダンの中はひたすらに煙草臭かったし、トランクには釣り竿が転がっていた。稼いでいるとはいうが、本当に仕事をしているのだろうか?

 もうひとりの男を拾う為に空港へ向かうことにした。この街の道はどうも走りやすそうだが、とにかく交通量が多い。中心部を抜けると車も少なくなったが、男はセダンで飛ばしに飛ばしたから気が気でなかった。

 車の中で煙草を吸い、窓を開け、「寒い!」と言って窓を閉めることを何度か繰り返すうちに空港に着いた。ギャング映画みたいに到着ターミナルに乗り付けて前後ドアの窓を開けて、男を探した。男が来ると、彼が株主優待を使って飛行機に乗ってきたことを何度か、からかい、再び高知市街へと戻った。煙草を吸い、窓を開け、寒いと窓を閉め、そして大きな大きな音で昭和歌謡を流しながら…

〜つづく〜

ナメガキ考

  “ナメガキ”という言葉をご存知だろうか?と、問うまでもなく、この記事を読む皆さんはご存知だろうし、このスラングを使っているだろうし、幾人かは御自分がナメガキそのものであると自負されていることだろう。わたしがTwitter上に於いてこのスラングを用い始めたのは、2019年の初旬ごろだった様に覚えている。裕福な家庭に生まれて自由に生きる友人たちの姿を見て、“人生を舐めてる(舐めていそうな)ガキ”という意味を込めて使い始めた。もっとも、友人に対して親しみを込めていても“人生を舐めていそうなガキ”という含意のある言葉を用いるのは不適切で失礼なことであると、今では考えている。ナメガキという言葉は徐々にタイムラインで広がり始めて、何人ものフォロワーさん達が使い始めるようになった。エゴ・サーチをすると、FF外でもナメガキを使ってくれている人たちが現れた。ナメガキを自称する人々の多くが、裕福な家庭に育ち一定以上のレベルの大学に通う趣味人の大学生達という印象を受けた。

 

 喫茶店での語らいの愉しみをより多くの人に分かち合い、趣味人同士のコミュニティができると面白いと考えたことから始めた純○○同○会という名のサークル。2020年6月頃が、その発足時期だった様に思う。外部から見れば活動実態が不明瞭にも思えるこのサークルの構成員(?)だった人たちが、こぞってナメガキという言葉を用い始めた頃から、わたしはナメガキという自分の中で愛着を持っていた造語が、自分の手から離れてしまったかのような印象を受けた。その理由について詳細を述べることは項を改めたいと思う。

 

 当時のわたしは、京都の大学に在籍しながらも狭い下宿で実母といまは亡き愛犬と同居していた。休学中にアルバイトをしながら狭い部屋へ帰れば母親と顔を合わせていつ果てることのない小言を言われたり特に意味もない会話をされることに疲れ切っていた。また、復学後に果たして単位が取れるのだろうか等と悩みが尽きなかった。しかし、外から見ればわたしは病を理由に休学をして長く大学へ通う、モラトリアムを謳歌しながら喫茶店で煙草を燻らすだけの痛い大学生である。他人にこの様な話をしても状況が理解される訳も無かろうし、この様な悩みを少しならまだしも、多く聞かされる相手は辛いだろうと考えた。そうして、わたしはナメガキという仮面を被ったのである。他人に対して自らの悩みや漠然とした不安を打ち明けて自分が生きている背景を理解してもらうことなど難しかったし、都度、説明することも面倒であった。それならば、悩み葛藤する自分の姿を、面白おかしくナメガキというキャッチーな言葉のオブラートに包んでしまい、モラトリアムを謳歌する学生であると見られた方がラクであった。周りに対してもその様な飄々とした態度でいた方が健全な関係を築けるのではないかと考えたのである。そうは言うものの、オブラートに包み切れない悩みを吐露してしまうことも多々あった。他人の家庭事情などという悩みを話されても、どうすることも出来ない問題について、愚痴を聞いてくれた人達には今一度、感謝の意を述べたい。

 

 まとまりの無い記事になってしまったが、ここで伝えたかったのはナメガキという言葉の持つ意味の多面性である。ようやく大学を卒業出来たので、今一度、わたしの大学生活の中で大きな意味を持つこととなった“ナメガキ”という言葉について考え直したいと思い、筆を執った次第である。

 

 当記事やナメガキについて何らかの意見がある方はリプライ等をいただけると幸いだ。

 

 

 

ソープにいけるぞ❣️と騙されて滋賀の山奥に連行された話

 滋賀の大津には“桃源郷”があるという。わたしがそんな話を聞かされたのは五月のことだったか六月のことだったか定かではない。例によって“親分”が京都へ来てくれることになり、わたしたちは親分を迎えて京都の古民家で飲み会をしていた。明くる日の昼、滋賀の雄琴温泉に行くという。“ソープにいける”のは嘘だとしても、温泉旅館に泊まって懐石に舌鼓を打ち安らかな気持ちで休日を過ごすことが出来ると考えていた。その夜は、宴の後に古民家で“ろくでなし”たちと共に眠った。

 

 明くる日の朝、“親分”の車に乗せられたわたしたちはまず、京都と滋賀を結ぶ峠道のはじめの方にある温泉へと向かった。ここで温泉に入るというわけではなく、飯も美味いのだそうだ。良い旅のはじまりに、わたしはほっこりとし、来たる雄琴温泉に向けて“潮が満ち”はじめてきていた。この旅にはどんな出逢いが待っているだろうか。ふと、わたしは妙なことに気付いた。普段はフォーマルな服装をすることが多いわたしの仲間たちが、どこかこの日は軽装だったのである。それに、荷物も心なしか多い。まあ大きな問題ではなかろう。この旅には二台の車が供されることとなった。一台は親分が乗るいつものトヨタ製小型車、もう一台は仲間の男が乗る国産のオープンカーだ。それら二台の車に分乗し、“滋賀の温泉”を目指すこととなった。

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 お気に入りの歌謡曲などを流しながら峠を走ること三十分程、滋賀は大津の街並みが眼下に広がってきた。バイパスを経由すればものの二十分程で雄琴には着くだろうと、この時のわたしは来たる“極上”の夜に胸を高鳴らせていた。しかし、車は雄琴温泉の近くで下道に入ることはなく北へ北へと走り続けるばかりだった。

「琵琶湖を一周してから温泉に行くんや」

 常識的に考えれば、これが苦しい言い訳であることは明らかなのだが、一縷の望みを捨てることの出来なかったわたしは、普段の彼らによる素っ頓狂な行動からその言葉を信じることにした。

 オープンカーは流石に速く、トヨタの小型車に乗っていたわたしたちはあっという間に置いて行かれた。道路側の家々が減り、山々が近くなった頃、

「ここで買い出しをしよう。」

とスーパーに小休止することとなった。買い物カゴには溢れんばかりの肉、野菜、菓子、そして酒。わたしはこの時分、森永のクッキーを好んで食べていたので、“ムーンライト”をカゴにこっそり入れることも忘れなかった。

 

 二台の車はやがて、滋賀の北の方にある田畑を抜けて、森へと突き進んでいった。わたしは深まって行く森の緑を眺めながら、己の中にある暗澹たる気持ちをも深めていった。いつ帰れるのだろうか?どのような場所に泊まるのだろうか?疑問が尽きる事はなかった。

 

 人気のないキャンプ場に到着した。ロッジが立ち並び、手入れされた芝生と木々はシティ・ポップのジャケットを彷彿とさせていた。午後が深まり、やがて陽の入りが近付くと、わたしたちはバーベキューの用意を始めた。バーベキューは肉も野菜も何もかもが溢れた充実したものであったし、そこには、あの“色男”が持ってきたコイーバすらあった。キャンプ場の他のロッジには人影は見えず、オープンカーをステレオ代わりにして流れる音楽の中で、世界がわたしたちだけの為にあるかの様に錯覚した。

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 バーベキューの熱気も冷めやらぬままに、部屋へ戻ったわたしたちは、“あいのり”を見ながら好き勝手なことを言って愉しんだ。わたしと“ろくでなし”たちの旅も“あいのり”の様なものと言っても差し支えはなかろう。そこには漢臭い欲望や煙草や酒の香り、歌声はあっても、“映える”ラブ・ロマンスは一切存在しないのであるが…

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 翌朝、旅はいつもそうであるが、その日もわたしは早く目が覚めて、夏の訪れを感じさせる朝の光の中でニカラグアのシガーを燻らせた。“拉致”や“騙し合い”から旅が始まるのはわたしたちの半ば常識ではあるが、結局来てしまうと悦(たの)しいところが一番に厄介だと思われた。わたしが部屋に戻りふと外に目をやると、グランド・セフト・オートのギャングたちがいた。きっとわたしが逃げ出さない様に手配されたのだろう。この山奥から、いつもの小型車に乗せてもらう以外にどうして脱出する術があるのだろうか泣。どうやら、無事に帰れそうということに安堵をして、車に乗り込んだ。どうやら、今日こそ“温泉”に行けるそうだ。オールディーズ・ナンバーを流しながら御機嫌に走る車の中で、旅の疲れを癒してくれる温泉への期待は高まるばかりだった。

 二台の車は温泉とは何ら関わりのなさそうな田んぼの畦道に停まった。

「ここに温泉はほんまにあるんかいな?」

「まあ、付いてきいや、もうすぐ見えてくる。」

「見えたやろ」

 

 

「田んぼしか見えへんけど泣」

 

 

 

 

 

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どうやらこれが“温泉”らしかった。美しいねーちゃんも懐石料理も温かいお湯も何も見当たらなかった。わたしは“温泉”と騙されたことに対する憤りよりも彼らがどうしてこうも手間の掛かる悪戯を仕掛けたのかが分からずに困惑をした。たしかにこれは“温泉”の中でも“鉱泉”らしく、小さな風呂というよりは野菜置き場には滋味のありそうな“何か”がびっしりとへばりついていた。泣 

 これに飽き足らずもう一つの“温泉”を見にいった後、高浜の中心街でお昼を食べた。お蕎麦と天丼は美味しく、高浜の街にも思っていた以上の風情が感じられた。

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 「泳ぎたい」

 ある男のひとことから、琵琶湖の北部へと向かうこととなった。半グレ(の様に見える人)たちが船遊びをする横で、車を降り、一人が湖に入り、他は湖畔に寛ぎ、親分は車の中で昼寝をしていた。これまでの総ての憂慮が湖に溶け込んでいくかの様な優しい午後だった。

 

 湖に遊ぶのも飽きた頃、いよいよ雄琴温泉へと向かった。陽が低くなる中で大津の方へと車を走らせた。日帰り温泉で汗を流してから帰ろうという魂胆だった。増える車の量に“まち”へと戻ってきたことに安堵していた。雄琴温泉の温泉街に差し掛かると、わたしは夢と幻に消えた“大人の温泉街”を眺めては涙を流した。煙草と酒と嘘を覚えて人は大人になっていくのだ。

 

 日帰り温泉の駐車場に車を停めて、喫煙所で一服をし、それぞれの今後の予定について話合ったが、誰も日帰り温泉に入る者は無かった。温泉に入るのには疲れ切っていたのだろうか。

 そうして、旅は終わりへと向かい、わたしたちは“おごと温泉”駅からJRに向かい、住み慣れた京都の街へと戻っていった。

 わたしが本当に“雄琴温泉”へ行ける日がいつになるのかは誰にも分からない。

 

 

 旅を終えてから少し経った頃、Googleで田畑の中の“温泉”を調べてみた。意外にも口コミがあり、その中のひとつに“馬鹿になるならココ一択❗️”といった様な内容があった。ひどく納得をした。この“温泉”で馬鹿になったことが、その後のわたしたちの旅に繋がっていくことは言うまでもないことだ。

 

終 

 

 

 

 

 

 

 

南風に抱かれて

 梅田の路地裏で“ジョージ・クルーニー”と煙草を吸い終えた後、天国の蜜と地獄の泥を交互に舐める様な旅の記憶を暖めたままに、グレイハウンドのバス・ターミナルへ向かった。新たな“ビジネス”への期待と不安が入り混じったままに、バスを待った。グレイハウンドが大きなターミナルに滑り込んできた。古き好き時代を思わせる銀色の車体にはおれ以外誰も乗らなかった。大阪のサウス・サイドにあるターミナルを出ると、運転手は「今日はお客さんひとりですワ、どこにも止まらんと行けますけどどないしまっか?」おれの答えは当然の如くイエス。グレイハウンドはAMラジオを流しながら南へと向かった。

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 車窓から見える空は青く、海は濃い青を湛えて永遠の様に思えた。淡路島を抜けるともうすぐにベネフィット・アイランドだった。椰子の木が並ぶ駅前の目抜き通りは、これまた古き好き時代を思わせるビルヂングが立ち並んでいた。おれ好みの街だ。“ビジネス”の幸先は良さそうだ。

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 おれはその街のランドマークの名が付いた喫茶店である女性を待った。姉と慕う女性。美しく聡明で、どこまでもおれに優しい女性(ひと)を。その女性もまた“ビジネス”でフォー・ランズに来ていて、休みの日におれを訪ねてくれた。喫茶店で煙草を吸っても良いのか分からないままに、二杯目の珈琲を頼んだ。結果は禁煙。この雰囲気の中で煙草を燻らせられれば、どれほど素敵な時間を過ごせただろうか。

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 姉が来た。おれたちはいくつかの喫茶店の休業日を残念に思いながら、駅前の喫茶店へと入った。この日の予定を練って、取り敢えずは銭湯へ行くことにした。おれは車中泊だったので疲れ切っていた。

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 田舎の街の銭湯はお湯が熱い。おれはお湯の熱さを見に染み込ませる様にしながら旅の疲れを癒した。銭湯を出ると姉が待っていた。“神田川”の様なことをさせてしまったなと思いつつ、昼食を食べる場所を探した。街を歩くと、クルーズ船乗り場を見つけた。もう少し歩くと、“アカシアの雨が止む時”を歌った歌手と同じ名字を店名にしたおれたち好みの食堂が現れた。いくつかのメニューを頼み、煙草を吸い、お茶を飲み、刺身に舌鼓を打ち、満足の内に昼食を終えた。

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 先程見かけた船着場へ。船着場では親父達がミスター・ドーナツを食べていた。親父の一人が船を待つ間、ストーブに火を点けてくれ、おれたちは煙草に火を点けた。船はひょうたん島と呼ばれる市内中心部をすっぽり入れた様な島の周りの川を巡ってくれた。市内の川を渡す橋はどれも低い。おれたちは束の間のクルーズを幼児の様にはしゃぎながら愉しんだ。おれの脳裏に流れていたのはSmokey RobinsonのCruisin ボブ・ディランが現代アメリカ最高の詩人と褒め称えたあの男の名曲だ。

https://youtu.be/FzuqWcUHd2Y 

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 束の間のCruisin’はもう一度この街へ来たいと思わせるに充分なものだった。船を降りると幼児のおれ達はホビー・ショップを経由してセントラル・ポスト・オフィス裏の音楽喫茶へと向かった。どうも、アメリカ南部の音楽がテーマの様で、聴いたことのない歌手のカバーのソウルの名曲が流れ、大瀧詠一のポスターが貼られ、飛び切り甘いドーナツがあり、そして煙草が吸えた。もうすぐ姉ともお別れだ。次に逢えるのはいつだろう?旅はいつでも出逢いと別れの繰り返し。おれ達はいつも出逢いと別れを学んで寂しさに自分を慣らす為に旅をしているのかもしれない。

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 姉と別れた後、おれは宿にチェック・インした。ひと風呂浴びた後、洗濯機を回し、“ビジネス”に向けてスーツとシャツにアイロンを掛け、そして束の間、微睡んだ。微睡の中、おれは今までに逢ったことのない美しい女と夜を戯れていた。その夢が覚めた時、空腹に気付いた。旅に出るとお腹が空くものだ。親分のお陰で美味いものばかり食えていた旅の後は尚更だ。宿の近くに、チャイニーズ・レストランがあった。おれは片言のチャイニーズで言葉少なに注文をし、中国の少し古いヒットソングを聴きながら、煙草を燻らせていた。店員たちとおれと、一組の若い恋人たち。恋人もいないおれはこれから先はたったひとりで旅を続けなければならないのだ。

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 チャイニーズ・レストランを出た後、街の規模の割には大きな繁華街をひとりで彷徨った。ひとりで夜を過ごす勇気など、その時のおれには微塵もなかった。美しい女達がおれを手招きする横を誘惑に駆られながらも通り過ぎる。親分がいない今、美しい女達がいる店になど入れる訳がない。キャバレー、スナック、軍国酒場と古き好き時代を思わせる酒場をいくつも行きつ戻りつしながら彷徨った。古き好き時代というのもまたおれにつまらないノスタルジーに過ぎない。自分が生きていない時代についての良し悪しなど誰が語れるものだろうか?

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 繁華街の外れ、商店街と言っても差し支えのない様な場所に一軒の酒場を見つけた。ある有名な作家の名前を掲げた看板と小さな窓のカーテンから漏れ出る暖かい灯りしか外から窺えない。しかし、ぼったくりに遭うような店ではなかろうと検討をつけてドアを開いた。バッハの作品をジャズ・アレンジした音源が流れている。聴けばイタリアのピアニストだという。年老いたマスターはおれにシーバスリーガルのロックを手渡しながらあれこれと語り始めた。おれも語ることにした。猫が奥の部屋から入って来て、おれの側のチェアで微睡み始めた。バッハのジャズ・アレンジが終わり、おれと老いたマスターは互いの背景を少しだけ知り、次の音源が流れ始めた。近衛秀麿が戦前にニューヨークで録音した音源だという。ドヴォルザークの“新世界”、おれはあの街の“新世界”を思い出していた。何処の街へ行こうとも、あの街の記憶はおれを追ってくる。これまでもこれからもそうだ。近衛秀麿の音源はラジオの録音だった様で、演奏後に近衛秀麿のコメントが入った。日米同時中継だった為、現地時間の朝四時ごろから楽団が集められたそうだ。近衛秀麿のユーモラスでどこか素っ頓狂な語り口は寂しい夜を少しだけ紛らわせてくれた様に思えた。日が変わる少し前に、カウンターを立ち、ホテルの部屋へ戻った。朝から“ビジネス”というのにおれは些か夜更かししてしまった様だ。少しのオールドと一本のハイライト、歯ブラシの後に深い眠りに就いた。

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 翌朝、ホテルの朝食を取り、再び部屋で微睡んだ後に“ビジネス”へと向かった。若い男女数名がひとつの部屋に集められて“ワイズ・メン”たちが登場した。ここにいる彼ら彼女らは殺しあわないといけない敵であると同時に同志でもあった。どうかお手柔らかに、と願った。休憩時間、ひとりの美しい女と言葉を交わした。おれとその女は詳細は省くが、とある事項において共通点があった。ビジネスの概要が説明され、お手並み拝見という際にタクシーに乗った。おれと美しい女は同じタクシーに。“この街には何もない”と語る彼女の側で、おれたちだけに聞こえる声で、“貴女がいるから何もないなんてことはありませんよ”などと口走った。逢ったばかりで“貴女がいるから…”などとはよく口走れたものである。それが切っ掛けになったのかどうかは定かでは無いが、ビジネスの後、二人でお茶を飲みに行った。おれはこの女性(ひと)がいるならこの街に留め置かれたままで構わないかも知れないなどと考えていた。何故か?この女性はおれが古臭い喫茶店が好きだと話すと即座に街の喫茶やカフェを見ては“これは苦手そう”“これはあなた好みだね”などと言ってくれたからである。そしてそれらはすべて本当にその通りであった。美しい女は“何もない”市内の出身だったから、夕飯を食べに家に帰った。おれは再会を誓う彼女の言葉だけを胸にして、ひとりの街角へと呑み込まれていった。

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 ひとりになった後、宿で風呂を浴びて、宿のすぐ近くのバーへと向かった。宿から近いという以外にそのバーの扉を叩いた理由は無かったが、想像に反して、ファイアーキングカップが使われ、オールディーズな物であふれてジャズが流れる素敵な店だった。友人の素敵な女性から電話があったので少しだけ互いの近況について話し、バーの店主とオールディーズやら旅やら人生やら恋やら酒やら煙草やらについて話し続け、気付くと日は変わっていた。ようやく一人で宿に戻ろうという気がして宿に戻り、オールドを一杯だけ飲んで眠った。

 ベネフィット・アイランドでの最後の日。マイルス・デイヴィスのTutuが流れる中で爺たちが政治への悪口を言い合う喫茶店で珈琲を飲みつつ、帰りの予定を考えた。昼過ぎにベネフィット・アイランドの市街を出たおれは、リンギング・ゲートという街へ向かった。思いの外、リンギング・ゲートへの電車の切符は安かった。鉄道模型ジオラマの様な駅は“大麻”という地名に位置していた。

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 おれはリンギング・ゲートでジャズ喫茶を訪ねてカレーを食べた。ジャズ喫茶の名物フードは大体、カレーかピラフである。伝説的なジャズ喫茶であったその店は、マスターの没後、奥さんが普通の喫茶店として営業をし、徹子の部屋が流れていた。おれは新聞を読み煙草を吸い、珈琲を啜ることで、この興奮と狂想の数日間から日常へと自分を引き戻そうとしていた。

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 帰りの船の時間を調べて、ベネフィット・アイランドの港へと向かった。いよいよこの旅も終わりかと思いきや、そうでは無かった。旅の締めくくりに大阪の友人の家へと向かうのだ。船は意外にも混んでいて、二時間程のクルーズを寝たり起きたり煙草を吸ったりしながら過ごした。船が夜の闇に呑み込まれかけた頃、関西の某所にある港へと着岸した。大阪のサウス・サイドを縦断する特急に乗り込み、サウス一の繁華街であるナンバへと向かった。ナンバの街は人々の体温を感じさせる街ではあるが、多くの店が時短営業の為に、街の体温は少し低く感じられた。おれは酒を飲んでジャズに溺れて友人を待ちたかったが時節がそれを許さなかった。安いうどんを啜り、街を彷徨い、賭博場で煙草を吸い、街行く恋人たちを眺め、時間が過ぎるのを待った。

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 おれが煙草を吸い切ってしまい、新たな一箱を買った頃、友人はやって来た。この男もなかなかのギャングではあるが、その話はまた項を改めたいと思う。おれに逢うと美味い飯を食わせてくれる優しい男、この男も当然の如く色男である。おれの周りには色男と美女しか存在しない様だ。おれは色男になりたかったがなれないだけの男だ。そんなことを思いながら大阪メトロの古い車両に乗り込んだ。旅の最後の狂った夜は、大阪南部の色男とおれだけの秘密ということにしよう。

 

完(?)

 

 

 

 

男と女の哀しみが雪に変わる街〜終章〜

 “運命”の朝は静かに訪れた。明け方に帰ってきた色男に敢えて何も問わずに朝飯を食べる場所を探しに街へ出た。週末なので多くの喫茶店が開いていない。答えはやはり“ミスター・ドーナツ”もう三日連続だ。ドーナツはいくら食べても美味い。言葉少なにおれ達はドーナツを頬張り、金沢で飲んだ中では抜群に濃い珈琲をお代わりした。珈琲は黒ければ黒い程に良い。ジャズと一緒だ。

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 雪の残る街で“親分”を待った。親分は“あの街”から金沢へ今日も来てくれた。親分と昼飯を食べた。おれ以外は海鮮、おれは天ぷら。80〜90sのオリコン10位くらいの曲が流れる寿司屋はこのご時世にも関わらず大層混み合っていた。親分が口を開いた、おれ達を何処かに待たせて“友人”にクルマを手配させると。この言葉の“意味”を読み取りたくない気持ちとは裏腹に、“意味”がすぐ脳裏をよぎった。誰かが言った、“あの街”の雪は男と女の哀しみの涙が、雪に変わったものであると。

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 贅沢な昼食に舌鼓を売った後、これからの運命から気を逸らすかの様に蓄音器博物館へと向かった。二日連続のレコード演奏会では、館長から顔が覚えられていた。「昨日は何を流しましたか?」の質問に「ドリス・デイのSHANGHAI!」などとはしゃぎながら答える三人組の男達は家族連れの小学生の坊やには良い反面教師となっただろう。LPコーナーへ行き、ラフマニノフやら安全地帯やらを聴いた。おれたちはショパンのワルツを聴きながら窓辺から雪の街を見下ろす色男の姿に松本清張原作映画の影を感じた。“運命”の時は刻一刻と迫っていた。金沢の街での美しい時は、これから起こりうる男と女の哀しみが雪に変わる街へと備えられた国道8号線の様なものだった。そう気付いた時にはすべてが過去だった。

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 雪がすっかりこの街を覆い尽くし、雲が雪を降らせることにすら飽きた頃、一台のクルマが駐車場でおれ達を待っていた。何の変哲もない小型のマツダ。大きな男ばかり4人と美しい女1人を乗せたマツダは、8号線ではなく、高速道路をひたすら走り続けていた。BGMもない静かな車内には運命から気を逸らすかの様に吐くおれ達の冗談だけが時折、聞こえていた。

 高速道路は果てしなく白く続き、やがて下道へと降りた。県庁所在地であることを冗談であるかの様に拡がる白い田畑を見ながら、この街がきっかけとなり流した数々の涙を思い返していた。やがてマツダは街の方へと近付いた。人生でこの街を訪れることは無いだろうと考えてはいたが、もう四回目になるこの街の中心部の道路は大体見覚えがある。やがて、アジトの駐車場にマツダを滑り込ませ、見覚えのある部屋へと“戻って”きた。おれは“酔いどれ”だから、この街でおれが愛しおれを愛してくれた女の涙で水割りを作るかの様にオールドを煽った。旅のルール、絶望してはいけない。おれ達三人がこの街から教えて貰った一番大切なこと、を何度も反芻しながらオールドで身体を暖めた。

 ハイヤーを呼んだ。おれ達の様な身体のデカい男の集団にお似合いの国産高級ミニバン。この街一の繁華街へと向かう。しかし、ここでも目ぼしい店は開いていなかった。ようやく入った店は、有線で流れる音楽のセンスだけがやけに良いアメリカン・カフェ・バーだった。流れる曲名を当ててはにやにやと笑った。

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 どこか煮え切らない気持ちを残したまま、人気の無い商店街を抜けた。フィリピンのママが開けている、店内に聖句が貼られた“極上”のスナックへと向かうためだ。道すがら、おれ達はまた幼子にかえって雪玉をぶつけ合った。無邪気なこの時間がいつまでも続けば良い。哀しみの街にいることを少しだけ忘れさせてくれるそんな瞬間。

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 この看板や建物の雰囲気で察しのつく方も多いと思うだろうが、この街もまた、以前は青線であった。どうもこの旅は青線と縁がある様だ。いや、おれ達好みの酒場がある場所は決まって青線だったから、この旅に限った話ではない。フィリピンのママが開けるスナックは、スナックらしからぬ照明の明るさも特徴だ。勿論のこと、ママも明るい。この街の太陽の様なお店だ。当然、親分はこの店にボトル・キープをしていた。いいちこの水割りは飲み易く、少し甘い水の様な感覚で飲み続けていると、おれはへべれけになってしまった。へべれけになりつつも“悲しい色やね”などを歌い、遠い関西の地を思った。今回の旅では一体、この街にいつまでいるのだろう?そこにいる誰もが知らず誰もが目を背けるこのことを思った。

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 おれ達はタクシーで、色男は歩いて帰ると言った。これがこの街でいつも起こる悲劇のひとつになることを、この時は誰も知らなかった。「色男はあの後、ママを口説くんやろうな。」などと冗談か本気か図りかねる冗談を言いつつアジトに着いたおれ達は、色男も帰ってくることをすっかり忘れて、泥の様に眠りこけてしまった。

 翌朝、朝方になってようやく部屋に入れた色男が不機嫌そうにまだ寝ているのをよそにして、喫茶店へと向かった。あの一件は本当にすいませんでした。空は青く、高く、澄んでいた。珈琲は金沢と比べて濃く、地方紙には訃報と地域の幼児たちの紹介が載っていた。新聞に載っている事柄で気になることがあれば議論するのもおれ達が喫茶店へ行く時にするルーティンだが、生憎その日はそれに値する事柄は何も無かった。この街での“三日目”の様に何もない。しかし、恐ろしいことにこの日はまだ“二日目”だった。

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 喫茶店でのモーニングの後、アジトへと戻った。色男が起きていたので喫茶店へと彼を誘った。旅先で“豊かな”時を過ごすなら良い喫茶店を見つけるに限る。財布の中が寂しいおれ達、特におれは、親分がいないと酒は飲めないし、暖かい部屋で歌も歌えない。それなら喫茶店へと行くのみだ。おれ達は住んでもいないのに片手で数える以上の数は絶対に来ているお気に入りの喫茶店のソファに腰を沈めた。イージー・リスニングも耳に心地よく、何紙もの新聞と週刊誌を舐める様に読み続け、グラビアを只ならぬ情念の篭った目で見つめ、開いてない袋綴じを開けるかどうかを迷った。そうだ、喫茶店の話をする前に、珈琲よりも色の濃いスープが入ったラーメンの話は避けて通れない。これがこの街の名物だそうで、はじめて食べた日は食後の珈琲の味が身に滲みた。半ば怖いもの見たさで今回も食べてしまった。澱の様な後悔はいつ果てることなく口の中に残り続けた。このラーメンの良い点を挙げるとすれば、極度に味が濃いので、食後の珈琲や煙草が格別に美味いとい点である。珈琲や煙草の前菜としての意義以外をこのラーメンに見出せていない。

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 黒すぎるラーメン、喫茶店と来ればこの街鉄板の黒すぎるジャズを聴けるバーに行きたいところだが、生憎時間が早かった。そうなれば、残された娯楽はただ一つ、“賭博”だ。

 駅裏の賭博場に駆け込んだおれ達はポスターに写ってるねーちゃんが親分に似ていることなどを笑いながら、嬉々として台の前に座った。おれは人生以上のギャンブルはしたくないという建前を語りつつ、寂しすぎる財布を庇う様にして喫煙所で勝負師たちを待った。

 勝てない戦いに怒った中年男がディーラーによってバックヤードへ連れて行かれた頃、勝負師たちは戻ってきた。苦い顔をして苦い煙草を吸う、甘い時を求めた旅がこのままで良い筈が無い。気を紛らわせるようにザ・ドリフターズのコミカルな名曲たちを口ずさみながらアジトへと戻った。

 アジトへ戻った後、もう少し時間があったのでマクドナルドで珈琲でも飲もうという話になった。おれと“あの街”のマクドには少なからぬ因縁がある。去年の冬に“あの街”を訪ねた時、何日目だったかは忘れたが、心が折れかけそうになっていた時、飯をどうするかという話になった。おれはサイゼリヤを主張したが、“彼ら”はマクドを主張。バーガー・ショップはなるだけバーガー・キングへしか行かない主義のおれは執拗なマクド主張に対してキレてしまった。そんな話はひとまず置いておこう。おれたちは駅の中にあるマクドへと向かった。珈琲を頼む。奥の方の席へ座った。おれたちは“いつものように”くだらない冗談を言い合った。親分からの連絡も来て少しだけ場が暖まったその頃、事件は起きた。おれが肘で珈琲カップを弾いてしまったのだ。少し前にクリーニングへ出していたコートが濡れてしまったが、スーツは死守することが出来た。店員さんに謝りながら掃除をしてもらい、新しい代えの珈琲を頂いて一息つき、追加でアップルパイも食べた。この事件に関して、おれが溢した中でもカップに残った珈琲を啜ろうとしたという説があるが真相は“藪の中”ということだ。マクドはこういった予測しない悲劇が起こりがちであるから苦手だ。

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 「温泉へ行こう」親分が戻ってきてそう言った。おれは温泉という言葉も信じない。ワイズ・メン共に温泉旅行と称して森の奥の山小屋へ連行された挙句に、野菜洗い場を温泉だと言われたことがあるからだ。しかし親分が行こうと言う場所へはついて行くこともおれたちの大切な仕事のひとつだ。温泉と言われて連れて行かれた場所は確かに温泉ではあったが、この街には淡水化技術がない様で、お湯は塩の味がよく滲みた。湯から上がっておれはソフトクリームを食べ、親分たちはマッサージを受けた。身体もほぐれた頃、パキスタン料理屋へと向かった。以前は明らかにスシ・バーであったろうという外観のロードサイドのパキスタン料理屋は、おれ達の腹を満足させてくれた。この街で一番美味いのはパキスタン料理、そう考えても何ら間違いはあるまい。おれ達は余りに長く“愛し合う”様に旅を続けたから、もう何も新たに話すことは無かった。古いインターネット・スラングを口に出すなどの極上とはとても言えないコミュニケーションで言葉少なに笑った。隣の大学生達にも嘲笑(わらわ)れた。大学生達の乗っていたクルマが親分のよりも良いクルマだったが、親分の度量はクルマ如きに左右されるものでは無いという当然すぎる結論を得た。

f:id:yangchangpong:20220224190941j:image富山県の形をしたナン(汚い)

 黒いラーメン、黒い珈琲と来ればやっぱり黒いジャズだろう。ジャズも珈琲も黒ければ黒い程良い。ラーメンは黒く無いほうが美味い。若い頃の志村けんを思わせるマスターが居る極上のジャズ・バーのボックス席、恋しくて憎らしい○○(©︎ドリカム 大阪LOVER)の夜を惜しむかの様にグラスを傾け、マスターにリクエストをした。エロール・ガーナーサラ・ヴォーンジュリー・ロンドン、そしてナット・キング・コール。どれもさして黒くない。黒すぎるジャズも良いが、黒すぎるジャズはお酒の味を分からなくしてしまう気がする。おれ達は親分への愛や“ビジネス”の話や、愛おしい“極上”の女性達についての話を飽きることなく続けた。色男はこの場を愛おしむ様に、財布から福澤諭吉が描かれた紙切れを出した。この夜もいい夜だった。この場所がある限りはおれ達はこの北の街を嫌いになることは出来ない。勿論、親分が居るからというこの一点のみに於いてこの街をも愛していることは変わらない。

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 極上の夜を噛み締める様に悦(たの)しんだ翌日、おれ達はこの夜、この街を離れることを心に決めた。おれは昼から“ビジネス”があった為、お留守番をした。そうして、帰ってきた男たちと共に中華料理を食べに行った。この街で最後になるかもしれない食事、それはそんな感傷を許さないかの様に大盛りだった。傘を差して煙草を吸う、幾つになってもこの男たちと、極上の女性を訪ねて旅を続けたいものだと思った。

 おれと“ジョージ・クルーニー”は23時発の大阪行の夜行バス、親分と色男は金沢へと去っていった。色男の用事はひとつ、マリリン・モンローとの“決着”をつけに行ったのだ。その結末を未だおれは知らない。沈黙だけが語ることも沢山あるだろうから。

 バスは見慣れた梅田のターミナルに着いた。周りのビルの大きさと数に酔いながら、煙草を吸える場所を探して路地裏へ迷い込んだ。朝焼けの中で一服、ジョージ・クルーニーは見慣れた街角へと消えて行き、おれは次の“ビジネス”に向けてベネフィット・アイランド行きのグレイハウンドを待った。