異端者の悲しみ

耽溺日記

南風に抱かれて

 梅田の路地裏で“ジョージ・クルーニー”と煙草を吸い終えた後、天国の蜜と地獄の泥を交互に舐める様な旅の記憶を暖めたままに、グレイハウンドのバス・ターミナルへ向かった。新たな“ビジネス”への期待と不安が入り混じったままに、バスを待った。グレイハウンドが大きなターミナルに滑り込んできた。古き好き時代を思わせる銀色の車体にはおれ以外誰も乗らなかった。大阪のサウス・サイドにあるターミナルを出ると、運転手は「今日はお客さんひとりですワ、どこにも止まらんと行けますけどどないしまっか?」おれの答えは当然の如くイエス。グレイハウンドはAMラジオを流しながら南へと向かった。

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 車窓から見える空は青く、海は濃い青を湛えて永遠の様に思えた。淡路島を抜けるともうすぐにベネフィット・アイランドだった。椰子の木が並ぶ駅前の目抜き通りは、これまた古き好き時代を思わせるビルヂングが立ち並んでいた。おれ好みの街だ。“ビジネス”の幸先は良さそうだ。

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 おれはその街のランドマークの名が付いた喫茶店である女性を待った。姉と慕う女性。美しく聡明で、どこまでもおれに優しい女性(ひと)を。その女性もまた“ビジネス”でフォー・ランズに来ていて、休みの日におれを訪ねてくれた。喫茶店で煙草を吸っても良いのか分からないままに、二杯目の珈琲を頼んだ。結果は禁煙。この雰囲気の中で煙草を燻らせられれば、どれほど素敵な時間を過ごせただろうか。

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 姉が来た。おれたちはいくつかの喫茶店の休業日を残念に思いながら、駅前の喫茶店へと入った。この日の予定を練って、取り敢えずは銭湯へ行くことにした。おれは車中泊だったので疲れ切っていた。

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 田舎の街の銭湯はお湯が熱い。おれはお湯の熱さを見に染み込ませる様にしながら旅の疲れを癒した。銭湯を出ると姉が待っていた。“神田川”の様なことをさせてしまったなと思いつつ、昼食を食べる場所を探した。街を歩くと、クルーズ船乗り場を見つけた。もう少し歩くと、“アカシアの雨が止む時”を歌った歌手と同じ名字を店名にしたおれたち好みの食堂が現れた。いくつかのメニューを頼み、煙草を吸い、お茶を飲み、刺身に舌鼓を打ち、満足の内に昼食を終えた。

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 先程見かけた船着場へ。船着場では親父達がミスター・ドーナツを食べていた。親父の一人が船を待つ間、ストーブに火を点けてくれ、おれたちは煙草に火を点けた。船はひょうたん島と呼ばれる市内中心部をすっぽり入れた様な島の周りの川を巡ってくれた。市内の川を渡す橋はどれも低い。おれたちは束の間のクルーズを幼児の様にはしゃぎながら愉しんだ。おれの脳裏に流れていたのはSmokey RobinsonのCruisin ボブ・ディランが現代アメリカ最高の詩人と褒め称えたあの男の名曲だ。

https://youtu.be/FzuqWcUHd2Y 

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 束の間のCruisin’はもう一度この街へ来たいと思わせるに充分なものだった。船を降りると幼児のおれ達はホビー・ショップを経由してセントラル・ポスト・オフィス裏の音楽喫茶へと向かった。どうも、アメリカ南部の音楽がテーマの様で、聴いたことのない歌手のカバーのソウルの名曲が流れ、大瀧詠一のポスターが貼られ、飛び切り甘いドーナツがあり、そして煙草が吸えた。もうすぐ姉ともお別れだ。次に逢えるのはいつだろう?旅はいつでも出逢いと別れの繰り返し。おれ達はいつも出逢いと別れを学んで寂しさに自分を慣らす為に旅をしているのかもしれない。

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 姉と別れた後、おれは宿にチェック・インした。ひと風呂浴びた後、洗濯機を回し、“ビジネス”に向けてスーツとシャツにアイロンを掛け、そして束の間、微睡んだ。微睡の中、おれは今までに逢ったことのない美しい女と夜を戯れていた。その夢が覚めた時、空腹に気付いた。旅に出るとお腹が空くものだ。親分のお陰で美味いものばかり食えていた旅の後は尚更だ。宿の近くに、チャイニーズ・レストランがあった。おれは片言のチャイニーズで言葉少なに注文をし、中国の少し古いヒットソングを聴きながら、煙草を燻らせていた。店員たちとおれと、一組の若い恋人たち。恋人もいないおれはこれから先はたったひとりで旅を続けなければならないのだ。

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 チャイニーズ・レストランを出た後、街の規模の割には大きな繁華街をひとりで彷徨った。ひとりで夜を過ごす勇気など、その時のおれには微塵もなかった。美しい女達がおれを手招きする横を誘惑に駆られながらも通り過ぎる。親分がいない今、美しい女達がいる店になど入れる訳がない。キャバレー、スナック、軍国酒場と古き好き時代を思わせる酒場をいくつも行きつ戻りつしながら彷徨った。古き好き時代というのもまたおれにつまらないノスタルジーに過ぎない。自分が生きていない時代についての良し悪しなど誰が語れるものだろうか?

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 繁華街の外れ、商店街と言っても差し支えのない様な場所に一軒の酒場を見つけた。ある有名な作家の名前を掲げた看板と小さな窓のカーテンから漏れ出る暖かい灯りしか外から窺えない。しかし、ぼったくりに遭うような店ではなかろうと検討をつけてドアを開いた。バッハの作品をジャズ・アレンジした音源が流れている。聴けばイタリアのピアニストだという。年老いたマスターはおれにシーバスリーガルのロックを手渡しながらあれこれと語り始めた。おれも語ることにした。猫が奥の部屋から入って来て、おれの側のチェアで微睡み始めた。バッハのジャズ・アレンジが終わり、おれと老いたマスターは互いの背景を少しだけ知り、次の音源が流れ始めた。近衛秀麿が戦前にニューヨークで録音した音源だという。ドヴォルザークの“新世界”、おれはあの街の“新世界”を思い出していた。何処の街へ行こうとも、あの街の記憶はおれを追ってくる。これまでもこれからもそうだ。近衛秀麿の音源はラジオの録音だった様で、演奏後に近衛秀麿のコメントが入った。日米同時中継だった為、現地時間の朝四時ごろから楽団が集められたそうだ。近衛秀麿のユーモラスでどこか素っ頓狂な語り口は寂しい夜を少しだけ紛らわせてくれた様に思えた。日が変わる少し前に、カウンターを立ち、ホテルの部屋へ戻った。朝から“ビジネス”というのにおれは些か夜更かししてしまった様だ。少しのオールドと一本のハイライト、歯ブラシの後に深い眠りに就いた。

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 翌朝、ホテルの朝食を取り、再び部屋で微睡んだ後に“ビジネス”へと向かった。若い男女数名がひとつの部屋に集められて“ワイズ・メン”たちが登場した。ここにいる彼ら彼女らは殺しあわないといけない敵であると同時に同志でもあった。どうかお手柔らかに、と願った。休憩時間、ひとりの美しい女と言葉を交わした。おれとその女は詳細は省くが、とある事項において共通点があった。ビジネスの概要が説明され、お手並み拝見という際にタクシーに乗った。おれと美しい女は同じタクシーに。“この街には何もない”と語る彼女の側で、おれたちだけに聞こえる声で、“貴女がいるから何もないなんてことはありませんよ”などと口走った。逢ったばかりで“貴女がいるから…”などとはよく口走れたものである。それが切っ掛けになったのかどうかは定かでは無いが、ビジネスの後、二人でお茶を飲みに行った。おれはこの女性(ひと)がいるならこの街に留め置かれたままで構わないかも知れないなどと考えていた。何故か?この女性はおれが古臭い喫茶店が好きだと話すと即座に街の喫茶やカフェを見ては“これは苦手そう”“これはあなた好みだね”などと言ってくれたからである。そしてそれらはすべて本当にその通りであった。美しい女は“何もない”市内の出身だったから、夕飯を食べに家に帰った。おれは再会を誓う彼女の言葉だけを胸にして、ひとりの街角へと呑み込まれていった。

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 ひとりになった後、宿で風呂を浴びて、宿のすぐ近くのバーへと向かった。宿から近いという以外にそのバーの扉を叩いた理由は無かったが、想像に反して、ファイアーキングカップが使われ、オールディーズな物であふれてジャズが流れる素敵な店だった。友人の素敵な女性から電話があったので少しだけ互いの近況について話し、バーの店主とオールディーズやら旅やら人生やら恋やら酒やら煙草やらについて話し続け、気付くと日は変わっていた。ようやく一人で宿に戻ろうという気がして宿に戻り、オールドを一杯だけ飲んで眠った。

 ベネフィット・アイランドでの最後の日。マイルス・デイヴィスのTutuが流れる中で爺たちが政治への悪口を言い合う喫茶店で珈琲を飲みつつ、帰りの予定を考えた。昼過ぎにベネフィット・アイランドの市街を出たおれは、リンギング・ゲートという街へ向かった。思いの外、リンギング・ゲートへの電車の切符は安かった。鉄道模型ジオラマの様な駅は“大麻”という地名に位置していた。

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 おれはリンギング・ゲートでジャズ喫茶を訪ねてカレーを食べた。ジャズ喫茶の名物フードは大体、カレーかピラフである。伝説的なジャズ喫茶であったその店は、マスターの没後、奥さんが普通の喫茶店として営業をし、徹子の部屋が流れていた。おれは新聞を読み煙草を吸い、珈琲を啜ることで、この興奮と狂想の数日間から日常へと自分を引き戻そうとしていた。

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 帰りの船の時間を調べて、ベネフィット・アイランドの港へと向かった。いよいよこの旅も終わりかと思いきや、そうでは無かった。旅の締めくくりに大阪の友人の家へと向かうのだ。船は意外にも混んでいて、二時間程のクルーズを寝たり起きたり煙草を吸ったりしながら過ごした。船が夜の闇に呑み込まれかけた頃、関西の某所にある港へと着岸した。大阪のサウス・サイドを縦断する特急に乗り込み、サウス一の繁華街であるナンバへと向かった。ナンバの街は人々の体温を感じさせる街ではあるが、多くの店が時短営業の為に、街の体温は少し低く感じられた。おれは酒を飲んでジャズに溺れて友人を待ちたかったが時節がそれを許さなかった。安いうどんを啜り、街を彷徨い、賭博場で煙草を吸い、街行く恋人たちを眺め、時間が過ぎるのを待った。

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 おれが煙草を吸い切ってしまい、新たな一箱を買った頃、友人はやって来た。この男もなかなかのギャングではあるが、その話はまた項を改めたいと思う。おれに逢うと美味い飯を食わせてくれる優しい男、この男も当然の如く色男である。おれの周りには色男と美女しか存在しない様だ。おれは色男になりたかったがなれないだけの男だ。そんなことを思いながら大阪メトロの古い車両に乗り込んだ。旅の最後の狂った夜は、大阪南部の色男とおれだけの秘密ということにしよう。

 

完(?)