異端者の悲しみ

耽溺日記

ナメガキ考

  “ナメガキ”という言葉をご存知だろうか?と、問うまでもなく、この記事を読む皆さんはご存知だろうし、このスラングを使っているだろうし、幾人かは御自分がナメガキそのものであると自負されていることだろう。わたしがTwitter上に於いてこのスラングを用い始めたのは、2019年の初旬ごろだった様に覚えている。裕福な家庭に生まれて自由に生きる友人たちの姿を見て、“人生を舐めてる(舐めていそうな)ガキ”という意味を込めて使い始めた。もっとも、友人に対して親しみを込めていても“人生を舐めていそうなガキ”という含意のある言葉を用いるのは不適切で失礼なことであると、今では考えている。ナメガキという言葉は徐々にタイムラインで広がり始めて、何人ものフォロワーさん達が使い始めるようになった。エゴ・サーチをすると、FF外でもナメガキを使ってくれている人たちが現れた。ナメガキを自称する人々の多くが、裕福な家庭に育ち一定以上のレベルの大学に通う趣味人の大学生達という印象を受けた。

 

 喫茶店での語らいの愉しみをより多くの人に分かち合い、趣味人同士のコミュニティができると面白いと考えたことから始めた純○○同○会という名のサークル。2020年6月頃が、その発足時期だった様に思う。外部から見れば活動実態が不明瞭にも思えるこのサークルの構成員(?)だった人たちが、こぞってナメガキという言葉を用い始めた頃から、わたしはナメガキという自分の中で愛着を持っていた造語が、自分の手から離れてしまったかのような印象を受けた。その理由について詳細を述べることは項を改めたいと思う。

 

 当時のわたしは、京都の大学に在籍しながらも狭い下宿で実母といまは亡き愛犬と同居していた。休学中にアルバイトをしながら狭い部屋へ帰れば母親と顔を合わせていつ果てることのない小言を言われたり特に意味もない会話をされることに疲れ切っていた。また、復学後に果たして単位が取れるのだろうか等と悩みが尽きなかった。しかし、外から見ればわたしは病を理由に休学をして長く大学へ通う、モラトリアムを謳歌しながら喫茶店で煙草を燻らすだけの痛い大学生である。他人にこの様な話をしても状況が理解される訳も無かろうし、この様な悩みを少しならまだしも、多く聞かされる相手は辛いだろうと考えた。そうして、わたしはナメガキという仮面を被ったのである。他人に対して自らの悩みや漠然とした不安を打ち明けて自分が生きている背景を理解してもらうことなど難しかったし、都度、説明することも面倒であった。それならば、悩み葛藤する自分の姿を、面白おかしくナメガキというキャッチーな言葉のオブラートに包んでしまい、モラトリアムを謳歌する学生であると見られた方がラクであった。周りに対してもその様な飄々とした態度でいた方が健全な関係を築けるのではないかと考えたのである。そうは言うものの、オブラートに包み切れない悩みを吐露してしまうことも多々あった。他人の家庭事情などという悩みを話されても、どうすることも出来ない問題について、愚痴を聞いてくれた人達には今一度、感謝の意を述べたい。

 

 まとまりの無い記事になってしまったが、ここで伝えたかったのはナメガキという言葉の持つ意味の多面性である。ようやく大学を卒業出来たので、今一度、わたしの大学生活の中で大きな意味を持つこととなった“ナメガキ”という言葉について考え直したいと思い、筆を執った次第である。

 

 当記事やナメガキについて何らかの意見がある方はリプライ等をいただけると幸いだ。