異端者の悲しみ

耽溺日記

金沢の珈琲は薄い

 その夜の雪はそう激しくなかった。おれたちは“極上”の夜を夢見ながら、まだ見ぬ女性(ひと)のことを考え、口にして凍てつく北国の冬を暖めようとしていた。“色男”だけが本当の女性の話をしていた。先輩、というよりは“親分”と待ち合わせて、片町の外れにある古(いにしえ)の青線地帯へと向かった。今では個人経営の飲み屋やスナックが連なるこの一帯は微かな往年の色気を感じさせてくれて心地よい。そんな一帯もまた、店は閉じられているばかりだった。青線地帯のメイン・ストリートを抜けると、おれたちの背の高さぐらいあるかないかのバラック飲み屋街が現れた。飲食店街組合が設置している公衆便所の方が立派なぐらいのバラック街。これは悪口ではない、むしろおれの好物だ。f:id:yangchangpong:20220224155842j:image

真偽の程は全く以て定かではないが、元自衛官といった雰囲気を漂わせるマスターの店に入った。“親分”以下おれ達4人が入るといっぱいになってしまうようなお店。案の定、警察や自衛隊関係者のボトルなどがキープされており、色気漂う街と公権力との一言で言い表せられない仲を暗示させていた。

 この店を出てから、金沢といえば、の地下駐車場を改装した様な中華屋が閉まっていたので近くの中華屋へと入る。紹興酒、キムチ、炒飯、餃子、ハイボール青椒肉絲、、、といったお馴染みの面々と共にショパンも居た。一体どこの誰が掘りごたつのある大衆中華でショパンが流れていることを想像出来るだろうか?北国の街はいつもおれ達の想像を超えてくる。f:id:yangchangpong:20220224160448j:image

 中華屋を出てから“親分”の舎弟の様な男たちと合流した。“親分”はそのカリスマ性故に、どの街へ行っても舎弟たちがいる。寒空の下を随分の間“パトロール”をした。どこも開いていないことと、“パトロール”されるのはおれ達の方だという厳然たる事実のみを得て、ホテルで飲むことにした。この旅も、おれにとっては“ジョブ・ハンティング”の一環でもあったので、男たちから“ビジネス”の話を伺った。彼らは揃いも揃って“ワイズ・メン”であった。その夜は、街の全てが静まりかえって雪の気配だけが漂う頃になって、ようやく眠った。

 翌朝、旅はいつもそうだが、思ったより早く目覚めモーニングへ行くことにした。近江町市場近くの“あの店”は開いてなかったが、何も言わないうちからモーニングとブレンドコーヒーを出してくれる店を見つけた。暫し一日の計画を練った。色男たちは寿司を食いに行き、おれは蓄音器博物館とジャズ喫茶へ行くことにした。“極上”の音楽に触れるというルーティンは旅の間も欠かしちゃ駄目だ。

 近江町市場のある交差点から徒歩十分程の蓄音器博物館は金沢に行くと必ず訪れるお気に入りの場所だ。世界中の蓄音器が揃っているし、実演もある。LPレコードを自由に聴けるコーナーが特にお気に入りだ。寝不足で微睡つつ、チャイコフスキーなどを聴いた。外の雪と相まって、これから起こる“事件”を想わせる映画のワン・シーンの様だった。

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 お昼を過ぎ、一度、昼食を摂りにジャズ喫茶へと向かった。ここにあるのか、という立地にもまた、この北の街の奥ゆかしさを感じさせられることとなった。この庭の奥に誰が金沢一のジャズ喫茶があると思うだろう?

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 はじめての店は誰だって緊張する。それが奥ゆかしさを感じさせられる立地のジャズ・スポットなら尚更だ。関西のジャズ・スポットによく置いてあるWAY OUT WESTのフリー・ペーパーが置いてあることにホッとしつつ、絶品のカレーに舌鼓を打ち、痺れた舌を珈琲と煙とで癒してあっという間に時間は過ぎ去った。

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 14時からのレコード演奏会に色男たちと待ち合わせていた。雪の街を急ぎ足に戻ると、レコード演奏会が始まった。エジソンの円筒型レコードにビクターの最高級プレイヤー、ブランズウィックの木製弦楽器の様な生々しい音を奏でるプレイヤー。ドリス・デイ美空ひばりピザレリにカザルス、ペレス・プラード楽団と様々な音楽を愉しませてもらった。その後はもう一度、LPコーナーへ。ジョージ・ベンソンのThis Masqueradeが色気たっぷりにおれ達の耳に残り続けた。

 その後、あてもなく金沢城公園の中を彷徨った。幼子たちが雪にはしゃぐ様におれ達は雪玉を互いにぶつけ合いながら戯れた。少し先が霞んで見えない程の雪の中を香林坊のミスター・ドーナツを“あて”と定めて歩き続けた。f:id:yangchangpong:20220224164256j:image

 ミスター・ドーナツ香林坊店は何と三階まであって、テナントの入るビルは“ドーナツ・ビル”という。甘いものと珈琲に目が無いおれには夢の様なお店だ。思い思いのドーナツを選んで三階へと。至れり尽くせりのこの店は、喫煙所でさえ設けられている。おれは煙草にも目が無いから、男達で煙草を吸い、何故かBGMの流れぬ席で珈琲をおかわりしながら凍れた身体を暖めた。そして、もう一人の“極上”の男を待った。“極上”の男はいつでも遅れてやってくるものだ。既定の時間から45分程が過ぎ、男は現れた。おれは“遅れたんやからドーナツ一個ずつみんなに買うてくださいよ”と詐欺師同然の手口でドーナツをねだった。この日食べたドーナツは古のアメリカ人と同じくらいの6つである。男と合流し男のクルマでスーパーへと向かった。雪深い街のスーパーは大変に混み合っており、おれが飲もうと籠に入れたオールドの瓶で予算オーバーした。色男は、その日が“マリリン・モンロー”とのデートだったので、彼を送って、女が来るのを張り込む様にして待った。二人が無事に合流したと思われる頃、金沢で働く“極上”の男のマンションへと向かった。

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 マンションで乾杯をし合い、“桃鉄”で遊ぶことになった。思い思いの不謹慎な名前をつけてゲームを開始したものの、冬の北陸での“極上”の旅に比べれば面白い筈もなく、おれは直ぐに“斎藤さん”という見知らぬ人と電話するアプリで遊び始めた。数人の女性と“ユーモアたっぷり”のお話をして満足した頃、ほかの男達もおれと同じアプリを始めた。こうなると、まるでテレアポ・センターの様相だ。夜はそうして深まって行き、“色男”は明け方までホテルへ戻ってこなかった。ただ、まだこの頃は平和だった。来たる日に起こる、恐ろしい事態をまだおれたちは知らなかった。(つづく)

酒と涙とドーナツと女

 お酒を飲むようになった。角やオールドを、ワン・フィンガー、ツー・フィンガーとロックでちびりちびりと歌謡曲のレコードなどを聴きながら飲(や)る。何故だかは分からない。周りの“極上”の男や女達はお酒を嗜む人が多いし、スナックへも懐の余裕がある時は行っているし、ムード歌謡やジャズといった飲酒に親和性のある音楽を聴いているばかりだから、これまでもお酒に親しむ機会はあった筈だ。けれども、二十代の半ばの今まで殆ど飲むことは無かった。体質的に弱いことがあるし、何にでも依存をしてしまいがちな自分の特性によって遠ざけていたからだ。

 そんな話はさておき、一月の末頃、“極上”の男からLINEが来た。「金沢へ行かないか?」私は“金沢”という言葉を信じていなかった。“極上”の男ともう一人の“極上”と三人で、半年に一回、北陸へ旅をするのが半ば恒例行事と化しているのだが、これまで二回、殆ど金沢へ足を踏み入れることは無かったからである。誘いの旅程すぐ後に、徳島行があったため、最初は断ろうと思っていた。「バスはもう取ってあるし。」腹を括るしかないのだと悟った。バスの行き先が確かに“金沢”となっていることに安堵した。この旅で何が起こるか知ろうともせずに。

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 滋賀の北部辺りから雪が路肩に残るのをちらりちらりと見るようになった。来たる北陸の寒さを思いつつ、サービスエリアに立ち寄った私は、喫煙所でハイライトを吸いながら“知多”の小瓶を傾けた。福井駅などに寄りつつもバスは早めに金沢駅へと到着した。凍てつくような北国の風から身を庇うようにコートの襟を立てると、雪が舞い出した。ここでいつまで過ごすのだろう?不安が胸をよぎった。“マイルス・デイヴィス”と見間違えるような名前の安ホテルにチェック・イン。看板も青色を基調としていたので、これは確信犯といっても差し支えなかろう。宿代に似合わない清潔かつ広々とした部屋で再び“知多”をロックで飲(や)り始めた。この後に先輩と合流する予定だったので、そこでも飲めるにも関わらず、この時の私は琥珀色の誘惑には勝てなかった。タクシーで香林坊の“大和”へと向かった。元来、酒に弱い私は火照る身体のまま、デパ地下や男性衣料品売り場を“極上”の男たちと共に彷徨った。

 そうしているうち、先輩がやってきた。飲み屋は片町の街外れにあるという。再び凍てつく金沢の街を歩き出したが、“知多”に暖められた身体は寒さをものとはしなかった。繁華街を離れて徐々に薄暗くなる街角に私たちは不安を覚えた。“金沢”で遊ぼうというのはまるっきりの嘘で“銀色のトヨタ製中古車UFO”に乗せられて、“エリア51”に連行されるのでは無いだろうかと。エリア51とは勿論、比喩である。その土地に行くといつ帰ることが出来るか甚だ不透明なのだ。わたしたちの憂慮をよそにして、一軒の居酒屋に腰を落ち着けることになった。北国にあるのに、どこか“海の家”を思わせる店内で、海の幸に舌鼓を打ち、この旅でも“博打”を打ち続けているな等と何の関係もないことを思った。

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 酒が入ると歌いたくなるのが人情というものである。わたしの場合、酒があろうとなかろうと歌いたいのであるが。居酒屋を出た後、片町の灯り眩しい界隈へと歩きつつ、スナックを探した。時節柄、大抵の場所が開いていなかったが、とあるスナック・ビルの中にあるアルファベット一文字の店名のお店だけは開いていた。迷わずに飛び込むと、“魔笛”が流れており、奥の方の席には鼻が大きくない大川栄作と研ナオコマリリン・モンローが座っていた。恰幅の良いマスターは“ママ”と呼ばれていた。

 “知多”に居酒屋のハイボールと、飲み始めの飲酒一年生にしてはハイペースで飲んでしまったので、このスナックではコーラを頼んだ。飲む歌う吸う飲む歌う吸う語らう語らう歌う吸う飲む、この繰り返しである。横の友人のグラスにシーバスリーガル12年が“わんこウイスキー”と言わんばかりに注がれ続けるのを見て、ここでコーラを選んだ自分に救われた思いがした。ママの昔の“男”の話などに耳を傾けつつ、また歌う。どこかの色男は、隣り合った女性を口説いていた。これが“正しい”夜だと思った。北国のぬるま湯の様な微睡の中に夜は束の間に過ぎていった。

 翌朝、思っていた時間よりも随分と早く目が覚めたので、“色男”を誘ってモーニングへ行くことにした。“ジョージ・クルーニー”はまだ深い眠りの中だ。近江町市場近くにあるその喫茶店は、定食の様な量のモーニングが売りである。500円で朝一番からお腹いっぱい。内装も勿論のこと素晴らしければ、ママも親切。煙草を軒先で吸わなければいけないという点を除いてみても満点だ。有難う。f:id:yangchangpong:20220224115310j:imageこの日は夕方まで特に何もしなかった様に思う。昼は近江町市場の寿司屋で海鮮丼を食べ、雪がますます激しくなる中を喫茶店でホテルのチェックインまで時間を潰して、ドーナツをたくさん買ってホテルで食べた。この後、三日間ドーナツを毎日食べることになるとも知らずに。酔人であるわたし達は、繁華街により近いホテルを身体が求めたのである。マイルス・デイヴィスからホテルを移したわたし達に待っていた夜は如何なるものだったのか。当初の想定よりも長くなってしまったので、何回かに分けて書いていこうと思う。お付き合いくださいませ。

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金陵假日

 夕方に上海駅を出た高鉄は順調に南京へと向かっているかと思われた。この鉄道での唯一の難点は隣の席が子連れだったことだろうか。私は子供が苦手であるし、それは私自身の幼児性の発露に他ならないとある人は言い、私も同感であった。順調と思われた高鉄は先に走る他の鉄道のトラブルによって、大幅に遅れて南京へ到着した。折からの倦怠感と臨席に子供がいたことの疲れもあって、宿までは地下鉄ではなく出租车を奮発した。ヒュンダイフォルクスワーゲンのタクシーに混じりスズキのタクシーが私の前に停まり、私は宿の住所を告げて後席に荷物を置いた。雨上がりだった様でタイヤが水を切る音が心地よく、あっという間に宿へと着いた。チェックインカウンターの若い男は親切だったが、窓のないドミトリーの部屋は私を憂鬱にさせた。倦怠感に苛まれてばかりいた上海の部屋にも窓はあったし、眺めもそう悪いものではなかった。夫子廟と呼ばれる界隈は、夜になっても賑やかだった。朝から何も食べていないことに気付いた私は目に入った食堂で、芋の千切りの様なものを食べた。味は悪くなかったが、なにぶん量が多かったもので、翌日は少しお腹が大変なことになった。食後に、水辺に腰掛けて、そばの煙草屋で買ってきたばかりの中華ボックスを燻らせた。中華という煙草は特段に美味しいわけでもないが、箱の見栄えの良さに時々買ってしまいたくなる魅力のある煙草だ。中華の煙を小川に映るネオンに溶かしつつ、心の底からピースやらハイライトやら日本の煙草の薫りを恋しく思った。ひとり旅は寂しいものだ。

 翌日、私はかねてより敬愛していた孫中山先生の墓陵へと向かった。ただ、上海から引きずっていた倦怠感を抱えた私には長い階段は耐えられるものではなかった。墓陵を諦めた私は市内にある旧総統府へと向かった。ここもまた、南京の一大観光スポットであるらしく、多くの人々で賑わっていた。ダメ元で出してみた日本での学生証で学割をしてもらえたことは嬉しかった。豪奢な庭と多くの建物、国民党の往年の栄華を偲ばせるこの場所で、歴史に想いを馳せるにはあまりにも感受性が摩耗していたようだ。お土産屋に売っていたOMEGAのロゴがついた置き時計だけがやけに印象に残っている。

 総統府を離れて街を歩いた。南京の街は金陵の時代からの城壁などがあって、なかなかに風情がある。大都市でありながらも、そこかしこにゆとりを感じられるこの街に、いつしか上海に倦んだ私の心は少しずつ癒されていった。少なくともこの街では一日の内に何人もの詐欺師に遭う心配はない。倦怠感は癒されたものの、特に行動的になった訳でもない私は、爺に按摩をしてもらう店でマッサージを受けたり、公園のベンチに座って午後のひと時を思い思いに過ごす人々を眺めながら、南京の街の名が付いた煙草を吸ったりした。明らかに南京に来てまでするようなことではない、自堕落な行いで二日間の南京での休日は流れていったのであった。上海よりは、この街が好きだ。北京までの夜行列車を待ちながら、そう思った。

 

𝐒𝐇𝐀𝐍𝐆𝐇𝐀𝐈倦怠記

 以前の更新からもう九ヶ月も経ってしまったが、数年前の旅行の話をもう少ししてみようと思う。

 飯を求めて上海の回族街に辿り着いた私は、一軒のレストランに入った。間口は狭いものの奥に長く、入口には回族街特有な大きくて丸いパンが山積みにされていた。客の殆どは回族ウイグル人と思われる家族連れだった。一人で来ているのはこの私ぐらいのものだった。中国をひとり旅する時に困るのは食事だ。味や値段の話ではなく大皿料理が基本なのでひとりで食堂へ行っても持て余してしまう。いきおい、麺を食べたり、大皿料理を一皿だけ黙々と食べることになる。回族街なら羊肉串などがあって量も調整しやすかろう、そう思ってここへ来たのかもしれない。

 隣の親父が飲んでいたドライフルーツなどが入った茶が美味そうに見えて仕方なかったので、それを頼んでみた。羊肉串と丸くて大きなパンも頼んだ。上海へ来たもののひとりだと飯の種類に欠けるのは少し残念なことだが仕方がない。味は申し分なく満足したまま宿へ帰った。

 翌朝、来たる南京行きのチケットを発行しに上海駅へと向かった。外灘や浦東と比べると、どこかさみしい上海駅付近。思っていたよりも早くチケットの発行が終わってしまったので、駅の周りを散策したが、特に見るものも無かった。上海に倦みつつある自分を見つけながら地下鉄に乗った。地下鉄を降りて煙草を買った。中南海の15mg。何故か中国ではタールの低い銘柄の方が値段が高い。タールの高い煙草を愛煙する私にとってはありがたい話だが。

 宿へ戻り、翌日の移動に備えて荷物を纏めて、その後は外灘と浦東の夜景を観に行った。宿は外灘にほど近く抜群のロケーションであるし、旅はこれからというのに、深夜特急第三巻の沢木耕太郎並みに私は倦怠感に苛まれていた。南京の街はこの気分を変えてくれるだろうか?それともこのままだろうか。

 

旅の途中にパチンコを打つな

 今回の記事は思い出語りであるし、要旨は表題の通りだ。

 もう半年も前のことになる。私は西陣にある寓居にて一人の大男を数日の間、居候させていた。お金もなかった私達がすることはと云えば、水上勉よろしくに千本通をブラついて、日活の前にあるポスターを眺めて、喫茶店に入って“ウィットに富んだ会話”をしながら煙を燻らせることばかり。大男はと云えば、お金がないと言いつつもパーラメントの6mgを吸っていた。私が当時吸っていたのはハイライトだったか。

 三日目だったか、この日は特に理由もなく今出川通を東に歩いていた。鴨川、私が好まない川、を超えると出町柳、もう十分程歩くと京都大学の前辺りに出る。腹を空かせていた私達は、ナンとスープおかわり自由のキャッチに惹かれて入ったインドカレー屋で無聊を託つことに余念がなかった。

 カレー屋を出た後は喫茶店に入った様な気もするし、そうではなかった様な気もする。何はともあれ、これは本題ではない。“乞食でも抱き締めてくれる場所はないんか”などと妄言を吐きつつも心の中は梅雨時のコンクリート打放しの部屋の様に寒かった。ただ、ひたすらに歩いているといつの間にか鴨川の西岸に戻り丸太町通を歩いていた。共産党京都府委員会や府庁を目にやりながら彼はこう言った。

『やんちゃん、二十分ほど待っててくれへん?打ちたくなってきた。』

 私は三回ほど、賭け事は控えろという様な内容を言ったが彼は聞く耳を持たず、高級腕時計ブランドと同じ名前のパチンコ店へと吸い込まれた。ハイライトを喫みつつ待つが埒があかないことこの上ないので、彼がスロットに興ずる姿を横で眺めたが、何も分からなかった。宴が終わった後、もう2000円もスっていたそうだ。

 堀川通を北へ上りつつ、彼のパチンコ懺悔録などを聞く。私は何を話しただろうか。

 二人の行く末も、その日の一日も、何もかもが西陣の灯り少ない路地の闇に消えてしまった様だ。

孫中山先生に会い損ねた話❶

魔都での一日を終えて雨水が染み込んだ路上の吸い殻の様に眠りこけたぼくは東方紅の鐘の音と共に目を覚ました。南京駅への切符を取りに上海駅へ向かうことにした。朝靄の中の福州路を南京東路の地鉄駅に向かう間に飯のことを考えたが、切符を取った後で良いだろうと考えて何も食べずにいた。

 

中国の大都市の鉄道駅、ぼくが“旅情”という言葉を思い浮かべる度に付随するその光景。広場の前の物売りと、少なくなったが宿の客引きとダフ屋。シートに座って時間を潰す人民たち。上海駅の駅舎は近代的だったが、その光景だけは変わらない。所々の公安のどこか気だるそうな顔もおなじみだ。

 

日本国内にいるうちにネット上で予約した切符を発券するだけなので簡単だった。番号と菊の御紋の査証をカウンターに滑り込ませて完了(ワンラ)。

 

駅前の携帯電話市場などを冷やかし、ホリデイ・インの便所を借り、あてもなく駅周辺を歩き始めた。これといった昼飯の決め手がなかったので、一度、宿の近くに戻ることにした。中国での一人旅、飯の選択肢が難しい。中国料理はやはり大皿で何人かでワイワイ食べるのが乙なものだ。

 

宿に戻るとドミトリーには昨日少し話した山東省出身のおっさんが昼寝をしているだけだった。曇り空を混み合う上海の雑踏に戻る気にはなれなかったので、日本から持ってきたうるまとジャルム・スーパーを10本ほど灰にしつつ、夕方からの予定を練った。どうやら回族ウイグルの人たちが集住するエリアがある様だ。中華料理らしい中華料理よりは羊やレーズンを使った様な西方の料理が食べたかったぼくはそちらへ向かうことにした。宿から歩いて十数分程、通りの名前は忘れてしまったが、どの店にも清真(ハラル)の表示があり、羊の棒肉を吊るす店が軒を連ねる通りへと辿り着いた。ぼくの故郷である広州の小北を思わせる光景だ。

 

数年前の中国旅行記①(旧ブログ転載編集記事)

今日は夕方から雨か、外に出るのが怠いなぁ。上海・外灘のユースホステルのベッドで近くの時計台が15分毎に鳴らす“東方紅”の鐘の音を聞きながら、そんなことを考えていた。前日に南京東路にあるブラジル料理屋で食べたバーベキューが胃もたれしている。あれほどに楽しみにしていた旅も終わりかけになると、疲れも相まって気怠いものだ。もうあと何回か“東方紅”を聞いたら、宿のすぐ近くの煙草屋に中南海を買いに行こう。そう思いながらもう一度寝返りを打った。。。

私は中国旅行が好きだ。というか、大学入学以来、一人で訪ねた都市の数の内、半分くらいが中華圏の都市だ。北からハルビン長春、北京、南京、上海、基隆、台北、広州、深セン、香港、澳門twitter等で見かける中国好き界隈の人達に比べるとまだまだ有名都市しか行っていない私であるが、大学のニ外ですらない中国語の授業で、これらの都市に行った事があると言うと老師に驚いてもらえる。それぐらいのライトな中国旅好きだ。

大学生になってからというものの、休みになる度に中国へ行っていた様な気がする。今年は一度も中国へ行ける機会がなかったのは寂しいことであるが。

これから数回のブログ記事では去年の9月に神戸から上海まで“新鑑真”というフェリーで行って、上海から南京、南京から北京、北京から上海に戻り上海から神戸までフェリーで戻った旅の話を覚えている範囲で記そうかと思う。あいにく写真はいくつかのスマホに分散しているので見つけ次第、記事を編集して追加しようかと思う。

なぜこの旅をしようと思ったか。この旅の自分の中での主目的はフェリーで中国に渡るということだった。明治以来、アジア中、いや、ヨーロッパや南米にも航路があった神戸港から今も出ている唯一の国際定期フェリー。飛行機とも鉄道とも違う時間の流れ方で異国を旅するのは私の長い間の憧れだった。

上海⇔神戸のフェリーは学割で27000円ほどである。2000年代まではこれが一番安い出国方法だったそうだが、今では春秋航空はおろか東方航空のキャンペーン価格よりも高い。それでも船旅の魅力には負けてしまった。チケットは割と簡単に買えて、旅行代理店や大学生協でも買えてしまう。

さて、神戸の港に早めに着き手続きを済ませる。噂には聞いていたが本当にお客が少ない。大きなフェリーなのに待合の客は30人程だ。出国手続きもおおらかかつにこやかなもので、国際空港のある種の緊張感とは違った和やかな空気だ。

船内の部屋は十二人の雑魚寝部屋だが、今日の乗客は私と華人のおじさんの二人。おじさんは東京で仕事をしているそうだが、極力飛行機には乗りたくないらしくいつも上海へはこの船で行くそうだ。フェリーのポイントカードを見せてくれる。おじさんと食堂に行く。メニューは豊富だし日本の安めの飯屋ぐらいの適正価格だ。瀬戸内海の島々、行き交う船を見ながらいただきます。食後は煙草。おじさんに中国の煙草を分けてもらいながらあれこれ話す。そうそう、私はこういう旅がしたかったんだ。

夜の8時からはバーが開きカラオケが歌える。飲物の値段だけで10時過ぎまで歌えてお得だ。中国と日本のカラオケ機材どちらもあるので、テレサ・テンとか山口百恵とか中国の80年代の流行歌とかを歌う。

船は丸2日かけて上海・外灘の国際フェリーターミナルに着くのだが、最後の朝の船からの上海の景色は格別だ。

到着ロビー、ここも空港と比べるとどこか穏やかな雰囲気だ。おじさんに再見を告げて、外灘のユースホステルまで歩いてみることにした。中国の街を歩く時のこの高揚感で徐々に胸が満たされていくような感覚は、何度味わってもやめられない。

途中の中国銀行で両替。市中の中国銀行は手数料ゼロで両替をしてくれるのだ。銀行の前で怪しい老人に英語で声を掛けられる。“闇両替か?魔都上海だな~”と思いつつ話していると銀行内のどこに行くと外貨の両替をしてくれるか、今日のレートは幾らかを教えてくれただけの親切なおじいさんだった。両替が終わったあと銀行を出ると同じおじいさんが“良い旅を!”と日本語で声を掛けてくれた。上海はつくづく不思議な街だな。そんなことを聞きながら東方紅の鐘を聴きつつ福州路の宿へと足を運んだ。

今日のところはこの辺で筆を置こう。次回はユースホステルに荷物を置いた後のちょっとした怖い話。どうぞお楽しみに。